尤も真面目な話ばかり書いているから、たまには道楽についてでも書いておこうと思う。
ゴルフを始めたのは3,4年前のことである。
最近といってももう長くなるわけだが、近ごろまた面白いと思ってしばしばやるようになった。
始める前には「あんなに小さな球を4,500mも先の穴にめがけて棒切れで打っていくなんてのは、随分殊勝なことだ」と思っていたわけだが、この至極当然にして失敗の多いことがそのうち如何にも面白くなってきた。
まずもってして、どうすれば一定の身体の動きが毎度同じようにできるだろうかと考えるわけだが、これがうまくいかない。同じようにクラブを振っているつもりでいるのに、球の方はあっちこっち気ままに飛んでいくのだから、如何に人間の(あるいは私の)身体感覚というものがいい加減であるかがよく分かるというものである。
それでああでもないこうでもないと、近頃はやりのレッスンなんかを動画なり見て試してみるわけだが、一向にうまくならないのには本当に参る。
分かったことといえば、如何にこの身体感覚というものを描写するための言葉が多いかとか、そういうことばかりである。
例えば「ムチがしなるように」やら「壁をつくれ」やら、挙句「バーン」とオノマトペで評してみたりといった具合であって、彼我の「バーン」は果たして一緒なんだろうかなぞと考えていると、本題はそっちのけで面白くなってくる。
オノマトペを多用した指導者といえば、長嶋茂雄が有名だろうか。「スッと」「ギューー」、そして「パーンと」。長嶋茂雄の天才を疑うものはあるまいから、指導を受けた選手たちも、はてどういうことかと必死に理解しようとしたに違いないのだが、その天才の感覚を受け継ぐことができた人間はどれほどいただろうか。
こうした身体知の形式化に関する問題は、今後あらゆる競技に関することは勿論のこと、身体/生命科学の分野をはじめとするあらゆる分野において緊要になってくるだろう。
身体感覚を基とする知の形態については、元来一子相伝的なやり方での継承が行われてきた。例えば古典芸能に関わるものがそうであるし、また宮大工のような一種特殊な形態の創造に関わるようなものがそれである。それらは形式化されない熟達した技能であるからこそ、人々をして感動せしめるものであると同時に、その継承が困難であることがまた知の喪失という事態を生むことにつながり得る。
このことは単なる文化の喪失だけを意味しないと私は思う。現代の生活というものが単調であるのは、この知に関する彩りを失ったからではあるまいか。形式知のみを知恵と捉え、身体的知を捨象してきたことそれ自体が、元来多様であった社会を、あるいは個人を、単一の単調な存在ならしめたといえば、言葉が過ぎるだろうか。
身体知の形式化といったが、本当の意味での形式化は困難であろう。2かけ2が4であるというのとはわけが違う。熟達の速度を速めることは可能だろうが、それが依然としてある程度の時間と鍛錬とを要するものであることにはかわりないだろうと私は思う。
前にも書いたが、考えるというのは向き合うということだ。自らの身体と対話するような、そんなのびやかでおおらかな学びが必要だ。
私の敬愛する小林秀雄もまた、随分ゴルフを嗜んだようである。写真が残っているのだが、フォームの綺麗であるのには驚いた。氏は、最も高尚な学びは、自己との対話であると説く。なるほど、確かにゴルフというものは、自己との対話無しには上達しないらしい。
そういうわけで、自分は今少しこの「自己との対話」を継続してみたいと思う。無論、道楽には過ぎないのだが。
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