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執筆者の写真【事務局長】岡田 光輝

本の紹介 -読書感想文-

更新日:2023年10月18日

夏休みの終わりに学生が読書感想文を書いているというので、その横で、自分も書くことにした。


といっても、ちょっとしたご座興として、裏表紙だけを読み、20分で書くと宣言して書き始めた。


作者への不遜極まる態度であって、冒涜といってもいい所業とは自覚するところであるから、いつか機会があればぜひじっくりと読んでみたいと思う。


その本は湯本香樹実氏の『夏の庭』というものだった。


以下はそのご座興の帰結を記す。


「死に至る病」とは、「絶望」である。これはデンマークの哲学者セーレンキルケゴールの言葉である。我々が死せるときとは、肉体的な死とは無関係に訪れ得るのではないか、これは科学の否定せるところには違いないが我々の常識はむしろこれをよく知るところではないか。はたして、これは医療の発展に伴う延命治療の是非といった問いをも我々に投射するものではあるが、ここでは詳しくは述べまい。尤も問題となるのは、この「絶望」のほうである、我々が「絶望」を感じるとは、そもそも一体どういうことなのだろうか。「絶望」を辞書で引くと、「希望を失うこと。」あるいは、「全く期待できなくなること。」とある。我々が未来、あるいは「先」に対するあらゆる展望を失うとき、絶望は向こうからこちらに歩いてくるのである。例えば、年老いるということは、奇しくもこの事実と連関せるものだろう。我々は時間的に、時間的死へと向かい、一歩一歩その歩を進めていることに疑いはない。つまるところ我々は、この世に生を受けたその瞬間から、絶望、すなわち死へとまっすぐに歩を進めているのである。

本書に記述される「生ける屍」のような老人の姿とは、すなわちこの絶望せる人々のことである。その死の瞬間に応接せんとこれを「観察」する少年たちが、その初めに眺めたものは、人間の物質的な死へと向かう姿であると同時に、この絶望という精神的な死へと向かう老人の姿であった。この少年たちと、件の老人との邂逅は、次第に「観察」から「交流」へと自ずから変節する。まるで、アーネストヘミングウェイの著した「老人と海」で描かれたあの交流と丁度同じように、暖かでかつ時に深淵なかかわりが、次第に老人を、そして、少年たち自身を変えていく。

 ここで我々は一つの問いを提出されていることに気づかなければなるまい。果たして、明確に未来に関する展望を失いつつある老人が、絶望という死に至る病をいかにして克服し得たかということである。我々の眼前にある時間という物質的空間的に規定された「前提」は、科学としてのそれは勿論のこと、我々の理性の捉えるところにおいても全くの普遍であり、決して動くことのないものであるかのように思える。しかし、かつて小林秀雄の指摘したように、この時間という事実が、果たして金太郎飴のようにまっすぐに伸びた永遠普遍のものであるか、ということについては、我々の常識がこれを認めることはない。例えば、我々が享楽に興ずるとき、我々の知覚しうる時間は短い。他方で、有閑の時を過ごすとき、時間はまさに永遠であるかのようにすら思える。これは各人の経た経験の差異にもよる。光陰矢の如しという言葉がいみじくもいうように、我々は年齢を経れば経るほどに、1年というときの過ぎることの速さを実感するようになる。常識の提出する時間と、科学の提出する時間とは別なのだ。本書の老人が直知し得た時間もまた、前者のものに違いあるまい。少年たちとの邂逅以前の彼は、未来を失った、残り僅かとなった変化のない、無機質な時間を感じていただろう。他方で、少年たちという未来に応接した彼にとって、そこに立ち現れた時間とは、悠久の、有機的なそれであったに違いないのだ。

 冒頭のキルケゴールの言は1849年に記された『死に至る病』にある。この「病」の蔓延は、まさしくこの17世紀、すなわち近代の幕開けにおいて生まれたものと言っていいだろう。我々はかつて「未来」というものにどれほど依っていただろうか。近代科学の登場は、我々に我々の将来を予測する術を与えた。ある変数Xについてこれを仮定したならば、自ずからしかるべき方程式へ代入することで、解が、すなわち未来に関する予測が我々の眼前に立ち現れる。学生にとってこれは、例えば良い大学に行き、大企業に就職しなければ、将来苦労する、といった話や、あるいは老後2000万円問題というようなことが言われるようになって久しいが、こういったあらゆる将来予測といった形をともなって、我々の意識を支配している。だが果たして、「未来」とはそういう類のものであっただろうか。「絶望」は「希望のないこと」から生ずるならば、果たして希望とはなにか。希望と予測は違う。希望は、我々の今現在からの延長のみによって規定されるものでは決してあるまい。むしろ、その全く予期し得ぬところ、そう本書における老人と少年の邂逅といった偶然からこそむしろ立ち現れるものではあるまいか。

 老人はいずれ死ぬだろう。だが決して死なぬものがそこにはある。老人が少年たちと交わした言葉、あるいはともにした時間、これは少年たちの中で生き続けるに違いない。絶望が「全く期待できなくなること」なのだとすれば、私はいつでも「期待」していたい。何をか、全くの偶然たる何者かとの「邂逅」を。

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