「芸術の秋」という言葉だが、一説には1918年に刊行された文芸誌『新潮』に「美術の秋」というコピーが載ったことが、その由来になったようである。
「美術」は、明治期以後作られた新しい言葉だが、「芸術」の方は、中国の『後漢書』に記載があるほど古い言葉である。“Art”にしてもそうだ、もともとは、ギリシャ語のtechn、ラテン語のarcに由来し、いずれも「学問」や「技術」を指したようである。それにもっと言うならば、「芸術」にしろ“Art”にしろ、それはそんな言葉のできるはるか以前から、我々人間のある種根幹を成すものとして、社会に存在しただろうということだ。
だが改めて「芸術とはなにか」と問われるとそれに応ずるのは容易でない。「どのような芸術が良い芸術か」とか「真の美とはなにか」というような問に興味はない、それよりも寧ろ、なぜ我々の社会には「芸術」なるものがあるのか、ということのほうに自分の興味はある。
小林秀雄に『美を求める心』という著作がある。
小林曰く、
「ただ物を見るために物を見る」
「好奇心ではなく愛情を持って触れる」
といったことが、美を求める、あるいは感動を得るに至る道だそうである。
日本人の美意識の表出として挙げられることの多い桜は、その咲き誇る桜自体の美しさもさることながら、寒さに耐える蕾や、散りゆくさまにまでその美を見出されてきた。ひとつのものを愛をもってただひたすらに見つめ、そこに美を見出し、表現する。芸術とは、そのまま各人の眼のことを言うらしい。
無論現代はあらゆる美にとって、あるいは芸術にとって受難の時代だろう。何かを知り、「分かる」ことが過分に称揚され、あらゆる存在は一義的、画一的な記号を付された商品になった。美を感ずるための余地は捨象され、我々もまた、そのような表現にあまりにも慣れてしまった。
『美を求める心』には、「近頃の芸術が理解できない」と嘆く人物の話が載っている。だが、寧ろ、その「わからない」の方に美はあるのかもしれない。
芸術家がその対象に感じたところそのままを美と感得することだ。
「美しい『花』がある、『花』の美しさという様なものはない。」
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