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感想~給食とプルースト~

お題の「給食」についてはまるで覚えていない。

たしか小学生のときにはあったように思うが、それ以上の記憶はない。


代わりにプルーストの『失われた時を求めて』という小説について書いておくことにする。


「文学史上最も偉大な小説」

などと評されるこの物語を、自分はそういう批評とは無関係に、気味の悪い奇怪さを以て眺めていた。


学生時分の余りある時間をもってしても、唯一読了に至らなかったことの理由には、何もこの小説の長さと自らの怠惰だけがあるのではあるまいと自分は信じている。


最も有名な一節は、紅茶に浸したプティ・マドレーヌから、幼少期の鮮明な記憶を回想するSceneだろう。

それが口に触れた瞬間、彼を得も言われぬ快感と幸福とが襲う。その所以を自己の記憶の中に発見した時、彼はその仔細に至るまでを独白する。



私のこの小説に対する奇怪という認識もまた、この一節に起因する。


この経験それ自体は、我々もよく知るところだろう。味であり、匂いであり、あるいは手触りであったり、ある種の感覚的経験や意識のようなものが、我々の記憶を想起し得るということを。

だが、この経験を反省してみることはあまりない。その刹那的な想起は、まさしく刹那的なのであり、我々の脳裏にあの味わいだけを残して霧散する。そういう類のものである筈だ。


プルーストはその味わいの中に座したまま動かない。まるで、現実に流れる時間なぞいくらでも分割可能であり、あるいは無限に繰り延べられるものででもあるかのように。


これが彼の積極的な人生嫌厭なのか、あるいは自らのしでかしたことを克明に記述しようとする小説家の性癖なのかを私は知らない。

 

ただいずれにせよ、その行為の指すところは、我々が常識だと思っている時間観念に対するある種の抵抗であり、その不可逆性との闘争だろう。


それはノスタルジーとも違う。なにか奇妙で徹底したものにすら自分には思えたのだ。


我々は普通、自らが経験した筈の世界を、あたかも傘でも忘れてくるかのようにそこかしこに置いてくる。


それは確かにあったのだろうが、今やそれすらも定かではない。ちゃんと写真なり記録なりには残っているのだが、果たしてそれは私だったのか、あるいは、と、どうにも訝しく思っている。


私の”プティ・マドレーヌ”はなんだろうか。

凍らせたみかんか、あるいは揚げパンか。


いずれにせよ、さほど重要なものは思い出せそうもない。

だが、それを思い出す時、わたしはきっと幸せだろうと思う。

 
 
 

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