学生の課題で、ポスターのつくり方について相談があった。
デザインなぞ門外漢なわけだが、一緒に課題を見てみることにした。
課題文にはこうある。
「対象をよく観察し、洞察すること。」
学生は、「観察と洞察とはどう違うのか」と質問をしてきた。
僕は同じことだ、と答えた気がする。
「観察」にしても「洞察」にしても、そう古い言葉ではないが、「観」の方は余程古い言葉のようだ。
禅という言葉があるが、あれは禅観が正しい呼び名で、もっというと、かつては「禅」の方を端折って「観」と呼んでいたらしい。
明治以降、あらゆる思考、思想の一切の翻訳を迫られた我々は、この「観」を矢鱈と使うことになった。
「観念」とか「人生観」とか、そういう言葉がそれだ。
当時これらの翻訳語を発明した我々にとって、「観」は余程馴染み深いことばであったに違いない。
小林秀雄の『私の人生観』にこういう事が書いてあるから引いておく。
武蔵は、見るという事について、観見二つの見様があるという事を言っている。細川忠利の為に書いた覚書のなかに、目付之事というものがあって、立会いの際、相手方に目を付ける場合、観の目強く、見の目弱く見るべし、と言っております。見の目とは、彼に言わせれば常の目、普通の目の働き方である。敵の動きがあゝだとかこうだとか分析的に知的に合点する目であるが、もう一つ相手の存在を全体的に直覚する目がある。「目の玉を動かさず、うらやかに見る」目がある、そういう目は、「敵合近づくとも、いか程も遠く見る目」だと言うのです。「意は目に付き、心は付かざるもの也」、常の目は見ようとするが、見ようとしないの心にも目はあるのである。言わば、心眼です。見ようとする意が目を曇らせる。だから見の目を弱く観の目を強くせよという。
小林は、続けてこうも言う。「こんにちは、人々が争って、見の目を強くする様になった時代である。」と。
「対象を観察する。」とは、ジロジロとやたらめったらに眺めることではない。寧ろ、対象を己の心に近づけるということだ。
おそらく「考える」という行為の意味も、そういうところに本質がある。あたかもらっきょうの皮でも剥くように思考したところで、そこからはなにも生まれはしない。
降りていくことだ。見るという行為と、考えるという行為が一緒になるところにまで。
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