これがお題だと言われたとき、一同「鍋だな」とつぶやいた。
いかにもこの料理、大人数でつつくもよし、私のような独り身にとっても手軽で野菜もとれるのだからこの季節大変重宝しておる。
語るまでもなし、いろいろと具材なり汁なり変えてやれば飽きもこないのであって、作るのにももっぱら野菜を切るぐらいで洗い物も出ないとくれば、これほど良いものはない。
こんな具合で普段は大して芸もない鍋料理ばかり食べているわけだが、年末の関東への帰省の折なんぞはいくつか年中行事のように狙って食べに行っているような鍋もある。
例えば、南千住の、あえて屋号は書かないが、牡蠣鍋をこさえてくれるところなんぞにはほぼ毎年のように通っている。最近ではどうもここの鍋をつつかぬと、年が明けぬような気がしてさえいる。
あるいはどうも縁があるらしくここ2,3年の付き合いになっているのが、茨城水戸のどぶ汁である。いわゆる鮟鱇鍋の類なのであるが、肝から丁寧に出汁を取るから大変濃厚な味わいなのであって、これも外せぬ定番になりそうである。
思えば、鍋とは年がら年中の付き合いなのかもしれぬ。
夏には三ノ輪にある桜鍋の老舗が私を誘う。暑気払いにはこれが効くのである。
いよいよいかにも話題に事欠かぬから、このままでは単なる美食家気取りの雑文になってしまいそうであるから、ひとつそれらしいことでも書いて置こうか。
なんでもこの鍋料理、料理としての確立は江戸後期であるらしい。尤もそれまでも各地域においてこうした形態の料理は存在していたのだろうが、客に提供されるものとしてのそれは割合近年になってからのものなのだそうだ。加えて明治の頃までは今の大勢で囲むような大きな鍋で供されることは少なく、一人用のものが一般であった。
これには江戸の町人文化の影響も多分にあったのだろうと想像する。当時江戸は世界でも有数の人口密集地であったことが言われるが、その背景には地方からの出稼ぎ労働者の多さがあった。江戸後期にはこれが問題となって、旧里帰農令といわれる、いわゆる人返しの法が幕府によって制定されるなど、その過密ぶりたるや相当のものがあったらしい。
こうした出稼ぎの単身労働者たちの胃袋を満たしたのが、鍋料理や種々の屋台で提供された「軽食」であった。有名な話として、今や世界的日本食となっている江戸前寿司も、このころにおいては、町人にとって簡単に小腹を満たせるいわばファストフードとして提供されていたものであったらしい。
冒頭で独り身には大変重宝であると書いたが、今も昔も同様というわけである。
さて、同じということでいえば、江戸(東京)の過密についても同じことがいえよう。
先に書いた旧里帰農令は、その制定の背景に農村の生産力低下を危惧した幕府の企図があったようだ。当時(から明治大正にかけて)この地方における「人口減少問題」は、「離村(問題)」と称された。この分析にあたっていた柳田國男は、大正の頃こんなことを書いている。
「日本人は常に、学問文章その他いっさいの技芸のことごとくを中央に集合しようとする傾向がある。極端な文化中心主義の国と言えるのである。それは都会人ばかりでなく、地方人が全く盲目的に町場を尊敬しすぎたからである。」
また、そうした風潮を作り上げたのは、都会の俗人よりもむしろ地方の優秀な学問ある若者であったとして、そういった人物の姿は、「他の田舎の人間にとって真率なる歎美心を起こさせ、それがかえって自らを軽んずるの気風となった」のだと評している。
柳田の言からは、「離村」という事実に対し、ある種の必然性を認めつつも、地方の優秀な青年の都市への流出を嘆き、相応の危機感をもってこれを受け止めていた様が見て取れる。
後に我が国は大戦を経て、戦後の混乱をものともせず、右肩上がりの経済成長を遂げた。物質的な豊かさという名の劇薬は、こうした諸課題を覆い隠すに十分な薬効を持っていたらしいのである。
離村の問題は「東京一極集中」あるいは、「地方における人口減少問題」と名を変え、眼前の課題として我々に再提出されるに至った。少なくも自分はそういう風に見ておるが、はてどうだろうか。
無論なんらの証明も、解決の方途も、この場で示すつもりはない。
独り鍋から立ち上る湯気が、そういう空想を導いたに過ぎぬのであるから。
参考文献
柳田國男,『民間伝承論』,『柳田國男全集28』,ちくま文庫,1990年,329頁
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