学びにおいてもっとも重要なことは何かと問われれば、私は「表象することだ。」と答えるだろう。
表象、あるいは前に書いた「観」でもいい。目に映ると映らないとに限らず、世界はいかにして「ある」のか「観る」ことが必要なのだと。
サンタクロースが形而上学的産物であろうとなかろうと、あらゆる国の子どもたちの中には明確なイマージュとしてのサンタクロースが存在するだろう。親から聞いた話が、あるいは手に取った絵本に描かれたそれが、めいめい勝手勝手の心像として、この時期の子ども達の心には想起される。
馴鹿がいっぱいの贈り物と好々爺を載せた橇を引く様か、あるいは雪が全てを隠してしまったような、静寂の寒空にひたに鳴る鈴の音か。それが眼前に現ることはそうあるまいが、どうしてそれが「ない」のだといえようか。
我々の知覚は如何に限定的なものであるか、
Cogito ergo sumは常に疑いを前提としなくてはなるまい。
月あかりは向こうからこちらへ来る。だが、「私の目は月まで届く」と言ってはなぜいけないのか。
無論、思弁的思惟のみで探究することはできない。だが同じくして思弁的思惟なくしてはあらゆる学問もまたないのである。
ある言葉に触れたとき、それに対してどれだけのものを想起できるかが、我々一個人を構成する上での全てであって、誤解を恐れずに言うならば価値だと言ってもいい。
なにかに思いを馳せることだ。対象はなにであってもかまいはしない。いずれ学びはそこから生まれる。
さて私は、かの翁についての表象は失って久しいから、饗宴の般若湯をでも想起しておくことにする。
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