ある小論文の試験で、認知バイアスに関する問が出題されていた。
我々の認知機能にはある種のリソース的限界があり、対象をどのように認識するのかということについて、類型に当てはめたり、あるいは積極的に認識を避けたり、そういう傾向があるらしい。
考えてみれば当然の話で、例えば馬にとって世界は、食べられる草と外敵とそれ以外とに大別されるであろうし、その草に対する洞察も感覚も、我々と大きく異なるであろうことは容易に想像できる。
もちろん、あまりに典型というものを信用しすぎれば、大いに問題があろう。偏見をもって対象を眺めることはしばしば我々を陥穽へ誘う。
他方で、この同一視も、類型化も、我々が世界を認識するための道具であり続けることに変わりはない。
はてどうすれば、我々は陥穽に陥ることなく、この世界を自在に視ることができるのだろう。
人生を演繹的に生きることはできない。己の人生から帰納することだ。
難しいなと思いました。