学生時分の私は、その他数多の青年の例に漏れず、「一体自分は何者なのか、あるいはどこへ向かおうとしているのか」と、そういう問の虜囚であった。
何が不足なのでもない。寧ろ十分に充溢した経験の中にあった私は、最早この世間なるものに生くべきなんらの価値をすら見出すことができなくなっていた。
如何なる意味においてもそこに積極的motivationなどありはしなかった。ただ、強烈なirritationと若干のapathyだけが自分を支配していた。
「向うからやって来た見知らぬ男が、いきなり僕を叩きのめしたのである」
小林秀雄は、詩人ランボーとの邂逅をこう評している。
私にはこの心境がよく分かる気がする。
私もまた、小林秀雄という凄烈な一撃を脳天に、いや、全身に受けたからである。
氏はひたに、常識を説いただけだった。それは別に世間一般の常識なるものとも別に相違しない。
ただ同時に、世間一般の常識とは如何にその世間なるものの虜囚であるかということも言い添えてなのだが。
小林はこういうことを言っている。
社会の要求するところに、いかに適応するか。その成功と失敗との問題が道徳の問題となるなら、私達は、もう社会的良心しか持ち合わせていないということになる。その他の性質を良心に付与するのは空想のする業である。自我が社会習慣のうちに埋没している事態より、明瞭化され意識化された社会習慣が、自我のうちに埋没するに至った事態のほうが望ましいものなのであろうか。
なぜ人格を無視するのか。社会という対象化された自然的秩序は、私達に直知されている人格の秩序にただ反するものではあるまい。二者は、単に通約の利かぬ概念でもなければ、統合するに適当な現代語のみの反対概念でもあるまい。両者は、互いに敵対しつつ共存している現実の与件だ。在るがままの世の中が見せている、二重になった素顔であろう。それがはっきり見えているということが、夢見ず覚めて世間に生きているというその事だと言えそうである。
『道徳』小林秀雄
なぜこの一節を記録していたのか、今では明瞭としない。
ただいみじくも往時の自分に対する何かを語っているように思えたから引いたまでだ。
言うまでもなく、私は夢を見ていたのである。あるいは夢見ることを心底軽蔑していたのである。(尤もそれは同じことだが。)
意識の直接与件としての社会を、あるいは自身を、夢見て覚めぬ観念中の動きとして眺めたのが私だった。
この傾向は変わりはしない。今でも十分に、いや十分すぎるほど地に足つかぬ夢中の人であるには違いない。
ただそうであればこそ、氏の常識はこの身に十分過ぎるほど染みる劇薬だった。
ランボーの『地獄の季節』の一節を氏はこう訳す。
そら、科学だ。どいつもこいつもまた飛びついた。肉体の為にも魂の為にも、―― 医学もあれば哲学もある、―― たかが万病の妙薬と恰好をつけた俗謡さ。それに王子様等の慰みかそれとも御法度の戯れか、やれ地理学、やれ天文学、機械学、化学・・・・・・科学。新貴族。進歩。世界は進む。何故逆戻りはいけないのだろう。これが大衆の夢である。俺達の行く手は『聖霊』だ。俺の言葉は神託だ、嘘も偽りもない。俺には解っている、ただ、解らせようにも外道の言葉しか知らないのだ。ああ、喋るまい。
これを現世への積極的不信を説く遁世者の言と読むか。
否、寧ろ、そこに醒めきったギロギロした眼を見なければ何にもなるまい。
「何故逆戻りはいけないのだろう。」
これは彼にとって、あるいは小林にとって十分に自得された問であった。
誰もが歴史のダイナミズムに逆らうことはできない。それと丁度同じように、我々はこの意識の直接与件たるあらゆるものを、この身に一手に引き受けねばなるまい。
それは全く実存的な問として、あるいは我が国の風に照らせば全き無常として眼前に立ち現れる。
人生とは、「ただ在るということに対する試論」に過ぎまい。
往時の自分はそういう風に解することにした。
誰もみな、この「ただ在る」ということの虜囚から逃ることはできない。
そういう意味で、我々の存在は、何かマテリアルなものにさえ見えてくる。だが同時に、そこになにか別のものを期待している。
そういう実存として、我々は「在る」に過ぎない。
氏の常識はそこを貫いて決して離れることはない。
個人主義という思想を俺は信用しない、凡その明瞭な思想といふものが信用できない様に。だが、各人がそれぞれの経験に固着した他人には十分に伝え難い主義を抱いて生きているという事は、信じる信じないの問題ではない、個人の現実的状態だ。ある階級はある階級へ、ある世紀はある世紀へ、それぞれ十分には伝え難い主義を抱いて生きている。この無闇な紛糾を理知は整理するかもしれないが、理知は紛糾を整理するだけの目的で人間に与えられたものだとは俺には考えられない。
整理する事は解決する事とは違う。整理された世界とは現実の世界にうまく対応する様に作り上げられたもうひとつの世界に過ぎぬ。俺はこの世界の存在を或いは価値を僅かも疑ってはいない、というのはこの世界を信じたほうがいいのか、疑ったほうがいいのか、そんな場所に果てしもなく重ねあげられる人間の認識上の論議に何の興味もわかないからだ。俺の興味を引く点は、たったひとつだ。それはこの世界が果たして人間の生活信条になるかならないかという点である。人間がこの世界を信ずる為に、或いは信じない為に、何をこの世界に付加しているかという点だけだ。この世界を信ずる為に或いは信じないためにどんな感情のシステムを必要としているかという点だけだ。一口に云えば、なんの事はない、この世界を多少信じている人と多少信じていない人が事実上のっぴきならない生き方をしている、ちょうどあるのっぴきならない顔があると思へば、直ぐとなりにまた改変し難い一つの顔があるようなものだ。俺はこれ以上魅惑的な風景に出会うことが出来ないし想像することも出来ない。さうではないか、君はどう思う。
『Xへの手紙』小林秀雄
私はこの問に対して首を縦に振ったまでだ。
社会的人間も人間のつくる社会もそののっぴきならない運動の所産としてあらゆる顔を我々に見せる。
世間なるものに期待するも絶望するも、めいめいが勝手勝手に見せる顔の数多あることの抽象に過ぎまい。
その顔をジロジロ点検することにおそらく意味はない。
寧ろそういう顔の数多あることの、あるいはその渦中に放り出された自己の、ただ在るということに対する試論だけが必要だ。私はそう信じている。
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