「行ってみたい国」がお題である。
「旨いもののある国」
大した考えもなしにこれに答ふるならば自分の場合こうなる。
学生の時分に行ったヴェトナム、わけてもサイゴンの料理には大いに驚いた。
路地裏の屋号も判然とせぬ店で供された、麺やら肉やら、そのどれもが旨かった。
同じヴェトナムであっても、ハノイの方へ行くとこれが幾分洒落た感じを帯びてくる。
また似たようなものを食べた記憶もあるのだが、どうにもこちらの記憶はおぼつかない。
はて、「他所」へ行くというのはどういうことなのだろう。
それ以来、私は我が国の「外」を見てはいない。旨いものの余多あることについていえば、名実ともに本邦の右に出るところはそうあるまいと思うからに過ぎぬのだが。
しかしながら、既記のあの「旨いもののある国」という感慨は、どうもまた別の情感を帯びているらしくもある。それは物理的距離ゆえの憧憬か、あるいはもっと別の観念的なものが故か、私にはわからない。
ひとつ明白に言えることといえば、同じ頃合の他の数多ある記憶と比して、サイゴンのあの一時は、明確な輪郭を持った色彩豊かなそれとして、私の脳髄をついて離れないということである。やたらとやかましい音響やら始終誰かが鳴らしているバイクのクラクションやら、今この瞬間であっても手に取るように覚えている。
我々が普段応接するあらゆる類のものは、我々が年を経るごとに、既に見聞きしたなんらかのものの焼き直しであり、相対的なものになっていく。年齢を重ねるほど時の経過が早く感じられるというが、それは無論我々が眼前の事物について、もはやこれを周到に点検するの必要を認めないからに違いあるまい。
だが、能々注意せねばならぬのは、その勝手なアナロジーを以てして点検を拒絶し、凝乎堪えることをしないのは、我々の態度如何なのであって、怠惰に過ぎないということである。光陰矢の如しという感慨は、我々の歩いた道のabundantであったことの証左であると同時に、その洞察の貧困を告白せしめるものであることにも思い至らねばなるまい。徒然を嘆くことは容易いが、その泥中に埋もれた花を発見することはいかにも困難極まる仕儀なのであって、誰もがそんな労苦を引き受けようとはしない。「他所」への憧憬はひょっとするとそんなところから生まれ来るのかもしれない。
畢竟、必要なのは、具体的な経験の安易な相対化を拒絶することだ。我々が向き合うあらゆる事物の実存は、我々の実存とののっぴきならない関係を以て成立している。「他所」を経験するの功は言うまでもないのであって、これを体験する者にとってのあらゆる意味と価値を提供してくれるであろうことには疑いない。だからこそ、これと向き合う実存の方もまた同様に緊要であることを忘れてはなるまい。
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